大同4年(809年)陰暦11月13日、東の国であったこの地に当社御祭神一言主大神は
三岐の霊竹を験(しるし)として御来臨されました。
神社創建の御由緒、また一言主大神の御縁起についてご紹介します。
吾(われ)はこれ大和國葛城山の東。高宮(たかみや)の岡(をか)に居(を)る一言主大神なり。
今此處に来(きた)れり。吾が住所(すむところ)をば人々な御嶽(みたけ)と唱(とな)へ崇(あが)む。
吾が本縁(ほんえん)を示(しめ)し。一度の参拝(さんぱい)を空(むなし)うせず。一言の祈願(きぐわん)をも徒(ただ)に過(すぐ)すべからず。
普(あまね)く利益(りやく)を垂(た)れて東(とう)國(ごく)萬民の災害(わざはい)を救(すく)はむと思へり。
また此三岐(みつまた)の竹を以て永く契とせよと宣(のり)給ふ。
『一言主大神社略縁起』
今より1200年以上昔のこと、第51代平城天皇の御代、大同4年(809年)陰暦11月13日のことでした。今の社殿のある辺りに奇しい光が現れ、忽然と筍が生じ三岐の竹(ミツマタのタケ)へと成長しました。
白雪降りしきる冬の季節にあまりに不思議な出来事なので、村人は祓いを修して卜占の神事を行ったところ、
「私は大和国葛城山(ヤマトノクニ カツラギサン)の東高宮の岡(タカミヤノオカ)にいる一言主大神(ヒトコトヌシノオオカミ)である。私の神としての由来を示し、私は一度の参拝であっても無駄にせず、一言の祈願であってもなにもせず打ち捨てることはしない。ことごとく利益を与えこの国の人々を災いから救うためにここに来た。すなわちこの“三岐の竹”(ミツマタのタケ)を私とおもって末永くおまつりしなさい。」
と大神より御託宣があられたのです。村人たちはこれに驚き畏み、当地を人跡馬蹄を禁じる禁足地としお社を立てました。後の世にその場所は三岐の竹に因んで「三竹山」と呼ばれるようになりました。
君を祈る只ひとことの神の宮 ふた心なきほどは知るらむ 加茂氏人
『続古今和歌集』
当社御祭神である一言主大神(『日本書紀』に一事主神、『古事記』に一言主大神)は我々の持つ「言葉」の力を司る大神であると云われます。紀・記の両書ともに雄略天皇条にその伝承を見ることができます。
曰く、雄略4年(西暦460年)陰暦2月の春に天皇が葛城山へ遊猟されたとき、山中に面貌容儀が天皇と非常によく似た人が現れました。天皇が誰何したところ、その人は「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神、葛城の一言主大神ぞ」(『古事記』)と応えられたのです。そして『古事記』では天皇は大神に深く畏み、伴の家臣たちの武具、着ている装束に至るまで全てを献上し、また『日本書紀』においては互いに獲物への射掛けを譲り合いながら、轡を並べて共に狩りに興じたと伝えられています。
「言い離つ神」とは、原文に「言離神」と書き、これは「コトサカノカミ」とも訓むことができます。この「コトサカ」とは「事解」とも書き、言葉によって物事を解決するという意味があります。つまり、一言主大神は悪事も善事も一言のうちに解決する力ある神であるとお名告りになられたともいえるのです。
ここから一言主大神は力ある言葉の神、また何事も解決する万能の神として、中世には正一位の神階を送られる(延文5年(1360年)葛城一言主神社)など時の朝廷からも厚く崇敬されました。また当社由来にもあるように、ただ一言の願いでもその言葉を疎かにせず聞き届ける神として、広く万民に信仰される神ともなったのです。
当社社伝によれば、一言主大神は大国主神の御長子である八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ)と同一神であるとも伝わります。かつて天津神より大国主神が国譲りを問われたとき、大国主神はその判断を御子である事代主神へ託しました。そして事代主神は天津神へただ一言国を譲り隠れるべきことを告げられ、自らその言葉通りにお隠れになりました。
そこから事代主神は誠道に従い有言実行を示された言行一致の神として、また事代主神の言葉の導きに大国主神を始めとした全ての国津神たちが従ったために、力ある託宣の神としても信仰されるようになりました。
一言主神社について
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